身内の集まりが減ることは、単なる人情の衰えではなく、家族の役割が変わった結果として理解できます。 ただし、共同作業の必要が薄れたことと、人間関係そのものの価値が薄れたことは、分けて考える必要があります。弁証法的には、家族の結束を支えた条件が変化し、その結束のあり方も変わる、という問題です。
正――共同の生産と生活が、家族の結束を必要とした
農業を中心に一家で生計を立てる生活では、家族は親族であると同時に、共同で働く集団でもありました。個人の働きが家全体の暮らしを支え、家の存続が個人の生活を保障するという関係です。
この条件では、身内との良好な関係を保つことには、感情的な親しさに加え、実際の生活を維持する意味がありました。冠婚葬祭や盆暮れの集まりも、互いの状況を知り、協力関係を確認し、世代を越えて役割を引き継ぐ機会として機能したと考えられます。
ただし、子沢山や親族の集まりを、人手の必要だけで説明することはできません。子どもの死亡率、老後の保障、相続、信仰、地域の慣習なども関係します。それでも、家族が共同の生産と生活を担っていたことが、密接な付き合いを支える重要な条件だったという見方には説得力があります。
そして、この結束には矛盾もありました。家族を支える協力が、個人にとっては、自分の事情や希望を後回しにする圧力にもなったからです。
反――個人の自立が、家族中心の生活を変える
家族が別々の会社で働き、それぞれの収入や職業上の責任を持つようになると、家族全員が同じ仕事のために協力する必要は小さくなります。
勤務時間、居住地、休日、子育ての事情も異なります。以前なら「家の都合」として共有されていた予定が、現在では複数の独立した生活を調整する問題になるのです。
この変化を踏まえると、昔と同じ頻度で集まることを求めるのは、家族の生活条件が変わったにもかかわらず、以前の行動様式だけを維持しようとする要求になり得ます。
集まる回数が減ったからといって、直ちに家族への愛情が減ったとはいえません。 関係を保つために必要な時間や方法が変わった可能性があります。むしろ、参加を義務として強く求めることが、親睦のための集まりを負担に変え、関係を悪化させる場合もあるでしょう。
ただし、職業上の自立は、生活全体の完全な自立を意味しません。病気、介護、育児、失業などでは、身内の支えが重要になることがあります。共同生産の必要が減っても、相互扶助の必要まで消えるわけではありません。
合――家族の結束を、義務から自発的な相互扶助へ変える
この対立を乗り越えるには、昔の集まりをそのまま復活させることでも、身内との関係を不要とすることでもなく、個々人の自立を前提に、家族関係を組み直すことが必要です。
たとえば、盆暮れに必ず全員集合することよりも、無理のない範囲で連絡を取り、困ったときには相談できる関係を保つことを重視する。会う場合も、慣習を履行するためだけでなく、互いに会いたい、話したいという理由を大切にする。そのような形です。
ここでは、親睦の意味も変わります。以前は共同生活を続けるために親睦が必要だった。現在は、別々の生活を送る人同士が、互いを理解し、必要なときに支え合うために親睦を保つ。そのため、集まる頻度だけでは関係の良し悪しを測れません。
一方で、関係をすべて「必要なときだけ」にすると、相談しやすさや信頼が育たないこともあります。普段の短い連絡や、ときどきの食事には、すぐには役に立たなくても、相互扶助の土台を保つ意味があります。大切なのは、それを負担の大きい一律の義務にしないことです。
したがって、ご指摘のように、家族が共同の生産単位でなくなった社会で、身内の集まりが減るのは自然な変化といえます。ただし、自然な変化であることと、放置してよいことは同じではありません。
弁証法的に目指すべきなのは、家族の結束を維持するために個人を従属させる関係から、自立した個人が、互いの事情を尊重しながら結び付く関係への発展です。集まりを減らすこと自体よりも、その変化に合わせて、親しさと支え合いをどう保つかが本質的な課題になります。


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