――学歴の実利と教育秩序をめぐる弁証法
結論
「学歴は新卒就職を終えれば、ほとんど実利を持たない」という見方には一理ある。しかし、それが「だから勉強する意味もない」「学校教育は無駄だ」という言説に置き換えられて社会に膾炙すれば、教育現場を支えている動機づけが失われかねない。
学歴そのものの効用が限定的であることと、学歴を得る過程まで無意味であることは、まったく別の命題である。
したがって必要なのは、学歴を過大評価することでも、無価値として切り捨てることでもない。
学歴とは、生涯にわたる能力の証明ではない。しかし、若年期に教育へ向き合った履歴であり、社会が教育秩序を維持するために用いてきた共通の目標でもある。
この二面性を理解する必要がある。
【正】学歴は新卒就職を終えれば実利を失っていく
学歴が最も強く作用するのは、職歴も実績もない新卒採用の段階である。
企業は応募者の能力を直接測定できないため、学歴を一定の代理指標として利用する。学歴には、学力だけでなく、計画性、継続力、試験への適応力、若年期の生活態度などが反映されていると考えられるからである。
しかし、就職後に職歴や実績が蓄積されれば、評価の中心は次第に変化する。
- どのような仕事をしてきたか
- どのような成果を上げたか
- どのような技能や資格を持つか
- 周囲からどの程度信頼されているか
- 組織にどのような価値をもたらせるか
中途採用や独立後の世界では、「どこの大学を出たか」よりも「何ができるか」が重要になる。とりわけ文系学部の学歴は、医師・研究者・技術者などの専門資格や専門教育と異なり、卒業後の職務能力を直接保証するものではない。
この意味では、
学歴は人生を通じて利益を生み続ける資産ではなく、主として社会への入口で使用される通行証である
という見方には相当の合理性がある。
【反】学歴の実利が小さいと公言すれば、教育への動機が失われる
だが、ここで問題となるのは、大人にとって正しい認識が、そのまま子供にとって有益な認識とは限らないことである。
十分な分別を持たない子供に対して「学歴には意味がない」と伝えれば、その言葉は容易に次のように曲解される。
学歴が無意味なら、受験勉強も無意味である。
受験勉強が無意味なら、学校の授業を受ける必要もない。
学校教育が無意味なら、教師や親の指導に従う必要もない。
本来、「学歴の社会的効用は限定的である」という命題にすぎなかったものが、「努力や教育そのものに価値がない」という命題へ飛躍するのである。
教育とは、成果が現れるまでに長い時間を要する営みである。しかも、子供は将来の便益を正確に評価できない。そのため教育制度は、試験、成績、進学、卒業資格という目に見える目標を設定し、現在の努力と将来の利益を結び付けてきた。
学歴には、単なる就職上の価値だけでなく、子供を教育の過程に引き留める「動機づけの装置」としての機能がある。
その装置を取り払ったまま、それに代わる価値観を提示しなければ、教育現場では次のような問題が起こり得る。
- 学習意欲の低下
- 教師の指導力の弱体化
- 親の教育負担の増加
- 家庭環境による教育格差の拡大
- 短期的快楽を優先する風潮の強まり
特に影響を受けるのは、自発的な好奇心や将来設計をまだ持っていない子供である。自ら学ぶ理由を見つけられる一部の子供には学歴主義が不要でも、それを社会全体の前提にはできない。
学歴否定は、むしろ教育格差を拡大させる
「学歴にこだわらず、好きなことをすればよい」という言葉は、一見すると自由で平等に見える。
しかし、実際には家庭によって、その言葉を受け止められる条件が異なる。
教育環境の整った家庭では、学歴を相対化しても、親が読書、文化、職業観、人間関係、資産などを通じて子供の成長を支えられる。一方、そうした資源に乏しい家庭では、学校と学歴が数少ない社会的上昇の経路になっている。
学歴という共通基準を弱めれば、社会が能力だけで評価するようになるとは限らない。むしろ、家庭の資産、人脈、話し方、文化的素養といった、外部から見えにくい要素の重要性が高まる可能性がある。
つまり、
学歴主義からの解放が、必ずしも実力主義をもたらすわけではない。場合によっては、家庭環境による選別を強める。
学歴には問題がある一方、試験という比較的明示されたルールによって、出自の違いを部分的に乗り越えさせる機能もある。
【合】学歴ではなく、学歴を得る過程に意味がある
以上の対立は、学歴を「目的」と「過程」に分けることで止揚できる。
卒業証書そのものは、年齢を重ねるにつれて効用を失う。過去の学校名だけで現在の能力が保証されるわけではない。学歴を一生の身分として扱うべきでもない。
しかし、学歴を得るまでの過程には、一定の価値がある。
- 基礎知識を身につける
- 苦手な課題にも取り組む
- 長期目標に向けて努力する
- 締切や規則を守る
- 自分の能力と限界を知る
- 他者と共通の言語で議論する
これらは、卒業後にも残る。
学歴とは能力そのものではなく、若年期に一定の教育課程へ参加した履歴である。その履歴から何を身につけたかには個人差があるが、だからといって過程全体が無意味になるわけではない。
したがって、大人が子供に伝えるべきなのは、単純な「学歴は重要だ」でも「学歴は無意味だ」でもない。
学歴だけで人生は決まらない。しかし、学歴を得るために培った知識、習慣、忍耐力は、その後の人生を支える。だから、いま与えられている教育の機会には真摯に向き合うべきである。
これが最も均衡の取れた説明であろう。
「本音と建前」は欺瞞なのか
大人が学歴の限界を知りながら、子供には勉強の重要性を説くことは、直ちに欺瞞とはいえない。
子供は発達段階にあり、抽象的で複雑な真実をそのまま扱えるとは限らない。教育では、成長に応じて説明の精度を上げていく必要がある。
ただし、「高学歴なら必ず幸福になれる」「低学歴なら人生は終わりだ」といった虚偽を教えるべきではない。それは学歴信仰を強め、失敗した子供の自己評価を不当に傷つける。
必要なのは虚偽としての建前ではなく、発達段階に応じた説明である。
幼少期には学ぶ習慣を身につけさせ、青年期には進学と職業の関係を説明し、成人後には学歴の限界と継続的学習の必要性を理解させる。この段階的な教育こそ、大人の責任である。
最終的な止揚
「学歴は無意味である」という言説は、学歴を絶対視する社会への批判としては正しい。しかし、その批判が学習、努力、規律、教育の否定にまで拡張されれば、社会は次世代を教育する共通の基盤を失う。
他方で、教育秩序を守るために学歴の効用を誇張すれば、学歴が人間の価値を決めるという別の弊害を生む。
したがって、両者は次のように統合される。
学歴は人間の価値でも、生涯にわたる能力証明でもない。
しかし、教育を受け、努力を継続し、社会への準備をした履歴として一定の意味を持つ。
学歴を相対化することは必要だが、教育まで無意味化してはならない。
教育現場を支えているのは、卒業証書そのものではない。将来の可能性を信じ、現在の欲望を抑えて学ぶという、世代を超えた社会的合意である。
「学歴に実利はない」という事実だけを拡散し、その背後にある教育の価値を語らなければ、その言説は個人を自由にするどころか、子供から将来の選択肢を奪う社会悪になり得る。

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