――貨幣のエントロピーを弁証法で考える
結論
増加したマネーサプライを減らすことが難しいのは、一度世に出た貨幣が単に散らばるだけでなく、預金・融資・資産価格・企業投資・政府債務・家計所得へと組み込まれ、社会全体の契約関係を作り替えるからです。
これをエントロピーになぞらえるなら、
貨幣を増やすとは、社会に購買力を放出すること。
貨幣を減らすとは、無数の経済主体に分散した購買力を回収すること。
放出は中央銀行や政府の決定で実行できますが、回収には資産価格の下落、信用収縮、倒産、失業、増税などの痛みが伴います。この非対称性が「貨幣のエントロピー」です。
ただし、これは物理法則そのものではなく、経済現象を説明する比喩です。
正――マネーサプライは政策によって減らせる
形式的には、増えたマネーを減らすことは可能です。
中央銀行には、主として次の手段があります。
- 保有国債を売却する
- 償還された国債の再投資を止める
- 政策金利を引き上げる
- 銀行貸出を抑制する
- 預金準備や金融規制を強化する
例えば中央銀行が民間に国債を売れば、購入代金が銀行システムから中央銀行へ移り、中央銀行当座預金が減少します。量的緩和と反対方向の操作です。
また、銀行融資が返済され、新規融資が行われなければ、銀行預金という形の貨幣も消滅します。
したがって、会計上は、
貨幣は増やせるのと同様に、減らすこともできる
といえます。
反――貨幣は社会の隅々まで拡散し、契約へ変化する
問題は、貨幣が発行された時点のまま、どこかに保管されているわけではないことです。
中央銀行が市場に資金を供給すると、その貨幣は、
- 銀行の準備預金になる
- 銀行融資や有価証券投資を支える
- 株式・債券・不動産の価格を押し上げる
- 企業や家計の所得になる
- 消費・設備投資・税収へ波及する
- 新たな借入れと契約の前提になる
という形で経済全体へ広がります。
ここにエントロピーとの類似があります。
熱は一か所から放出すると空間全体へ拡散します。散らばった熱を再び一か所へ集めるには、外部から仕事を加えなければなりません。
同じように、いったん社会へ流れた貨幣を回収するには、経済主体の誰かに支出削減や資産売却、債務返済を強いる必要があります。
貨幣は「消える」のではなく、債務と資産を巻き戻して消える
銀行融資によって1000万円の預金が生まれたとします。
借り手は、その1000万円で不動産や設備を購入します。売り手は代金を受け取り、別の投資や消費に使います。しかし、借り手には1000万円の債務が残ります。
その後、貨幣を減らすには融資を返済させなければなりません。借り手は所得を節約するか、資産を売却して返済資金を作ります。
多数の主体が同時にこれを行えば、
- 消費が減る
- 資産の売り物が増える
- 株価や不動産価格が下がる
- 担保価値が低下する
- 銀行が融資を絞る
- 景気が悪化する
という信用収縮が起こります。
マネーの回収は、単なる数字の減少ではありません。それまで膨張した経済関係の巻き戻しなのです。
貨幣増加と貨幣減少は対称ではない
| 貨幣を増やす局面 | 貨幣を減らす局面 |
|---|---|
| 国債購入・融資拡大 | 国債売却・融資返済 |
| 流動性の供給 | 流動性の回収 |
| 資産価格の上昇 | 資産価格の下落 |
| 借入れの増加 | 債務返済・貸倒れ |
| 支出・雇用の増加 | 支出・雇用の減少 |
| 利害関係者が広く利益を得る | 損失負担者が明確になる |
| 政治的に比較的容易 | 政治的抵抗が強い |
金融緩和の利益は、資産価格上昇や景気回復として広く認識されます。反対に金融引締めでは、住宅ローン利用者、企業、金融機関、政府など、損失を受ける主体が明確になります。
したがって、貨幣回収の困難は技術的問題だけでなく、政治的問題でもあります。
弁証法的展開
正:貨幣供給は危機を止める
金融危機や感染症危機の際、中央銀行と政府が大量の資金を供給することには合理性があります。
資金不足を放置すれば、黒字企業まで決済不能に陥り、連鎖倒産や大量失業が発生します。貨幣供給は、経済という身体に血液を送り込む救命措置です。
この意味で、マネーサプライの増加は社会秩序を守ります。
反:救済された貨幣が新しい依存関係を作る
しかし、緊急時に供給された貨幣が長期間残ると、社会はその貨幣量を前提として再編されます。
- 政府は低金利を前提に国債を増発する
- 企業は安い資金で借入れを増やす
- 家計は高い住宅価格でローンを組む
- 投資家は金融緩和を前提に資産を買う
- 金融機関は高い債券価格を前提に運用する
ここで中央銀行が急激に貨幣を回収すると、単に余剰資金がなくなるのではなく、これらの前提そのものが崩れます。
救命措置として導入された貨幣が、やがて経済を支える構造になる。このとき緩和からの撤退は、緩和を始めたときより難しくなります。
合:貨幣量を直接減らすより、実体経済を成長させる
この矛盾を止揚する現実的な方法は、名目的な貨幣量を急激に削減することではありません。
貨幣の増加を止めながら、生産力と名目GDPを成長させ、経済規模に対する貨幣量の比率を徐々に低下させること
です。
例えば、マネーサプライが100から150へ増えた後、これを無理に100へ戻せば、信用収縮を引き起こします。
しかしマネーを150程度で安定させたまま、財・サービスの供給能力や名目GDPが拡大すれば、貨幣の過剰感は次第に薄まります。
これは政府債務において、債務残高そのものを減らすより、経済成長によって債務残高対GDP比を下げる考え方と似ています。
エントロピーとしての貨幣
貨幣供給の過程は、次のように表現できます。
最初は中央銀行のバランスシート上に集中していた作用が、経済全体へ分散していきます。
この過程を逆転させるには、
という「外部からの仕事」が必要になります。その仕事の経済的な姿が、景気後退や資産価格調整です。
さらに、貨幣の拡散は元の状態を変えてしまいます。住宅価格が上がれば高い価格でローンを組む人が現れ、株価が上がれば企業はその評価額を前提に資金調達します。
したがって、貨幣だけを元に戻しても、経済を元の状態には戻せません。
割れた卵を元に戻せないように、金融緩和前の経済構造をそのまま再現することはできない。
これがエントロピーになぞらえた際の核心です。
最終的なアウフヘーベン
「増やした貨幣は必ず回収すべきだ」という貨幣数量重視の立場と、「回収すれば経済が壊れる」という信用経済重視の立場は、どちらも一面では正しいものです。
両者を止揚すると、次の結論になります。
問題は、マネーサプライを元の数量へ戻すことではない。
増加した貨幣に見合うだけの生産力、所得、税収、実物資産を社会が形成できるかである。
生産力が追いつけば、増加した貨幣は経済成長を支えたことになります。追いつかなければ、余剰貨幣はインフレ、資産バブル、通貨安となって調整されます。
つまり貨幣のエントロピーを克服する方法は、散らばった貨幣を強制的に集め直すことではありません。
貨幣を回収するのではなく、貨幣を受け止められるほど実体経済を大きくすること。
これが、急激なデフレや信用崩壊を避けながら金融正常化を進める、最も現実的な止揚となります。


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