借地借家法が生む「家賃の二重構造」――都心で月15万円と30万円が併存する理由

不動産

1.同じマンションに「二つの家賃」が存在する

賃貸住宅の家賃には、実質的に二つの相場があります。

区分意味決まり方
新規募集賃料空室を新しい入居者に貸す家賃現在の需給・周辺相場を強く反映
継続賃料すでに住んでいる人の家賃従来の契約額・改定経緯・当事者間の公平も考慮

例えば、10年前に月15万円で入居した部屋について、現在、同じ建物の空室が月30万円で募集されていても、既存入居者の家賃が自動的に30万円になるわけではありません。

その結果、同じマンション、同じ間取りでも、

  • 長期入居者:15万円
  • 数年前からの入居者:22万円
  • 新規入居者:30万円

ということが起こります。これが「新規賃料と継続賃料の分断」です。

2.借地借家法は家賃の増額そのものを禁止していない

借地借家法32条は、次のような事情によって現在の家賃が不相当になった場合、貸主から家賃の増額を請求できると定めています。

  • 土地・建物にかかる税負担の増加
  • 土地・建物価格の上昇
  • 物価など経済事情の変動
  • 近隣の同種物件との家賃格差

したがって、「地価が上昇しても絶対に値上げできない」という理解は正しくありません。法律上は増額請求が可能です。借地借家法(e-Gov法令検索)

国土交通省の標準契約書も、地価・経済事情・近隣家賃などによって賃料が不相当となった場合、貸主と借主が協議して改定できる形になっています。国土交通省「賃貸住宅標準契約書」

問題は、貸主の希望額まで簡単に上げられるわけではないことです。

3.「新規なら30万円」は、そのまま増額根拠にならない

貸主が、

同じ間取りの空室を30万円で募集しているから、あなたの家賃も15万円から30万円にします

と通知しても、借主が同意しなければ、その金額が当然に確定するわけではありません。

なぜなら、裁判上の継続賃料は、新規募集賃料だけでなく、一般に次の事情を総合して判断されるからです。

  • 現在の家賃
  • 前回改定からの期間
  • 契約締結時の事情
  • その後の物価・地価・租税負担
  • 周辺の類似物件の家賃
  • 貸主と借主の従来の関係
  • 賃貸借を継続してきたこと自体の事情

新規賃料30万円と継続賃料15万円の間に15万円の差があっても、その差額を一度にすべて貸主側へ移すとは限りません。

ここには、既存契約の安定性も考慮して家賃を決めるという発想があります。つまり、空室の市場価格と、入居中の契約を改定する価格は別物なのです。

4.借主が値上げに同意しない場合

貸主が増額を求め、借主が拒否すると、一般的には次の流れになります。

  1. 貸主が増額を通知する
  2. 当事者間で交渉する
  3. 合意できなければ民事調停を申し立てる
  4. 調停でも合意できなければ訴訟になる
  5. 裁判所が相当な継続賃料を判断する

裁判が確定するまで、借主は自分が相当と考える家賃を支払うことができます。最終的に裁判所がそれより高い家賃を相当と判断した場合には、借主は不足額に加えて、法律所定の利息を支払うことになります。

貸主にとっては、

  • 不動産鑑定や資料収集に費用がかかる
  • 調停・訴訟に時間がかかる
  • 希望額が全部認められるとは限らない
  • 入居者との関係が悪化する
  • 管理会社にも事務負担がかかる

という問題があります。

数万円の増額のために大きな費用と時間をかけるのは採算に合わないことも多く、貸主が値上げを断念したり、小幅な増額で妥協したりします。

5.最大の原因は「家賃」よりも「退去させにくさ」

普通借家契約では、契約期間が満了したからといって、貸主が自由に更新を拒否できるわけではありません。

貸主が更新を拒否したり解約を申し入れたりするには、借地借家法28条の「正当事由」が必要です。判断では、貸主・借主の双方が建物を必要とする事情、従来の経緯、建物の利用状況、立退料の提示などが考慮されます。

単に、

いまの入居者は15万円しか払っていない。退去させれば30万円で貸せる

という収益上の理由だけで、直ちに正当事由が認められるわけではありません。

ここが決定的です。

もし貸主が契約満了時に自由に退去を求められるなら、借主は「値上げに応じなければ次回更新されない」と考えます。ところが普通借家契約では、貸主による更新拒絶が制限されているため、借主は家賃増額を拒否しても、すぐに退去させられるわけではありません。

したがって、交渉力は借主側に傾きます。

6.地価が2倍になっても家賃が2倍になるとは限らない

地価上昇は増額理由の一つですが、家賃は土地価格だけで決まるものではありません。

家賃には、

  • 建物の築年数
  • 建物・設備の劣化
  • 管理状態
  • 床面積・間取り
  • 駅からの距離
  • 周辺賃貸市場の需給
  • 建築費・修繕費
  • 固定資産税等の負担
  • 契約開始時の家賃

などが影響します。

土地価格が大幅に上昇していても、建物自体は10年、20年と古くなっています。そのため、

土地の値上がりによる増額要因
- 建物の経年劣化による減額要因

という相反する要素が存在します。

また、マンションの売買価格が2倍になったからといって、居住サービスの価値まで2倍になったとは限りません。売買価格には将来の値上がり期待や投資資金の流入も含まれるからです。

7.それでも「15万円対30万円」は起こり得る

特に東京都心では、次の条件が重なると大きな格差が生まれます。

  • 相場が低かった時期に入居した
  • 普通借家契約である
  • 10年以上家賃改定がない
  • 貸主が値上げ交渉をしてこなかった
  • 周辺再開発で地域の人気が急上昇した
  • 円安・建築費高騰・富裕層需要で新規賃料が上昇した
  • 借主が滞納や契約違反をしていない
  • 借主に退去する理由がない

この場合、既存入居者は、実質的に大きな「居住継続利益」を得ています。

仮に市場家賃が30万円、実際の家賃が15万円なら、差額は月15万円、年間180万円です。10年間続けば単純計算で1,800万円になります。

もちろん借主がその金額を受け取っているわけではありません。しかし、経済的にはそれだけの住宅サービスを市場価格より安く利用していることになります。

8.貸主は退去時に初めて相場へ戻せる

既存入居者が自主的に退去すると、貸主は原則として次の募集時に家賃を自由に設定できます。

flowchart TD
    A["旧入居者:月15万円"] --> B{"居住を継続するか"}
    B -->|"継続"| C["継続賃料<br>大幅改定は難しい"]
    B -->|"自主退去"| D["契約終了・原状回復"]
    D --> E["新規募集:月30万円"]

そのため貸主にとっては、家賃を強引に上げるより、

  • 更新時に少しずつ増額する
  • 設備更新と引き換えに増額を提案する
  • 借主の自主退去を待つ
  • 合意による立退料を提示する

といった方法の方が現実的です。

9.「たくさんいる」という部分は統計上の立証が必要

仕組みとしては、東京の都心に「現在の新規募集賃料なら30万円相当だが、従来の契約により15万円程度で住み続けている人」が存在することは十分に考えられます。

ただし、

そのような人が東京に何万人いる
都心の賃貸住宅の何割を占める

という数量的な主張には、個別契約の継続賃料を把握した統計が必要です。一般的な募集賃料統計は空室の広告価格が中心で、長期入居者が実際に払っている家賃を十分には捉えていません。

したがって、最も正確な表現は次のようになります。

東京の都心では、新規募集賃料が大きく上昇する一方、普通借家契約の長期入居者については、借地借家法による契約継続の保護と家賃増額の交渉・立証コストにより、従来の低い家賃が残りやすい。その結果、同等物件の新規賃料が月30万円であるのに、既存入居者が月15万円程度で住み続けるような「新規賃料と継続賃料の二重構造」が生じ得る。

要するに、これは単なる「大家の値上げ不足」ではありません。借地借家法が居住の安定を優先した結果、地価上昇による利益が貸主だけでなく、長期入居者にも帰属する構造なのです。

一方で、借主保護がなければ、地価高騰のたびに住民が追い出され、所得の高い人だけが都心に残ることになります。日本の制度は、その弊害を防ぐ代わりに、既存入居者と新規入居者の間に大きな家賃格差を発生させている、と理解するのが適切です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました