――能力証明・資格・経済的プロパガンダの弁証法
結論
日本の大学卒業には、必ずしも「高度な学問を修めた証明」というほどの意味はない。日本では一般に、卒業より入学の方が難しく、選抜機能の多くを入試が担っているからである。
その意味では、難関大学への合格や在籍歴だけでも、一定の能力証明になる。極端にいえば、純粋な学力の証明だけが目的なら、中退でも足りる場合がある。
しかし、大学卒業は能力だけでなく、
与えられた制度に参加し、一定期間とどまり、必要な手続きを完遂した
という継続性・適応力・自己管理能力の証明でもある。したがって、大学卒業の意義は、学問的成果そのものよりも、社会参加のための資格と信用を獲得する点にある。
正――大学卒業は能力と教養の証明である
大学の理念的な役割は、専門知識を学び、批判的思考力を身につけ、社会を多角的に理解することにある。
本来、大学卒業とは単なる就職資格ではなく、
- 専門分野を体系的に学んだこと
- 論文や試験などの課題を完遂したこと
- 自ら問いを立て、調査し、考察したこと
- 異なる価値観を持つ人々と接したこと
の証明である。
大学で得た知識が直接仕事に使われなくても、抽象的な概念を理解し、情報を整理し、文章によって他者を説得する能力は、長期的には仕事や人生に深みを与える。
したがって、大学卒業には、職業訓練を超えた人格形成と知的成熟の意義がある。
反――能力証明なら中退でも十分ではないか
しかし、日本の大学では、入学試験の難易度に比べて卒業要件が緩い場合が少なくない。
特に難関大学では、卒業証書よりも合格実績の方が、受験時点における知識、処理速度、忍耐力、家庭環境などを強く反映している。
この点から考えれば、能力証明として重要なのは、
その大学を卒業したことではなく、そもそも入学できたこと
だという見方が成立する。
実際、難関大学の中退者が、容易に卒業できる大学の卒業者より学力が低いとは限らない。起業、研究、創作などで明確な実績を残した者なら、卒業資格がなくても能力を証明できる。
ゆえに、純粋な学力や才能の証明だけを目的とするならば、中退でも十分という主張には一理ある。
むしろ、実質的な学習を伴わず、単位取得だけで卒業した場合、卒業証書は知的能力の証明というより、形式的な通過証明に近くなる。
再反論――中退が証明するのは能力だけである
もっとも、企業や社会が評価するのは、純粋な知能だけではない。
中退には、才能や主体性の表れという側面がある一方で、
- 長期的な課題を完遂しなかった
- 組織や制度に適応できなかった
- 将来設計を途中で変更した
- 困難に直面した際に離脱した
という解釈も可能である。
もちろん、中退には経済事情、病気、家庭問題、起業など、合理的な理由もある。したがって、中退そのものを否定的に評価すべきではない。
それでも卒業には、学力とは別に「制度的完遂能力」の証明という意味が残る。
入学が瞬間的な選抜結果であるのに対して、卒業は数年間にわたる行動の結果である。大学卒業は、突出した能力の証明ではなくても、一定の継続性と社会的安定性を示す信用情報になるのである。
反――大学進学は経済効果のためのプロパガンダではないか
大学進学が推奨される背景には、教育理念だけでなく経済的利害も存在する。
大学進学者が増えれば、授業料だけでなく、
- 受験産業
- 教材・資格産業
- 下宿・住宅市場
- 奨学金・教育ローン
- 交通・消費
- 大学職員や教員の雇用
などに需要が生まれる。
そのため、「大学を卒業しなければ将来困る」という言説には、保険会社が不安を喚起して保険加入を勧め、金融機関や住宅産業が持ち家取得を勧める構造と共通する部分がある。
すなわち、
将来への不安を提示し、その解決策として高額かつ長期的な商品を勧める
という構造である。
社会全体が大学進学を当然視すれば、大学、予備校、金融機関、住宅業者、行政などに経済効果が及ぶ。したがって、「大学卒業は誰にとっても有益だ」という言説を、純粋な善意だけで説明することはできない。
再反論――プロパガンダであっても社会的効力は消えない
しかし、大学卒業の価値が社会的に作られたものであることと、それが無価値であることは同義ではない。
貨幣も、資格も、保険も、社会的信用によって成立している。人工的に作られた制度であっても、多くの人々がそれを基準として行動する限り、現実的な効力を持つ。
企業が採用条件として「大卒以上」を掲げ、公務員試験や専門資格が学歴を要件とし、転職市場でも卒業歴が参照されるなら、大学卒業資格には実利がある。
つまり、大学卒業は、能力を完全に測定する物差しではない。それでも社会が利用している以上、個人にとって無視できない通行証なのである。
住宅ローンや保険も、販売側の経済的利害を含んでいるからといって、すべて不要になるわけではない。同様に、大学進学を促す言説に産業的な意図が含まれていても、大学卒業の個人的効用まで否定されるわけではない。
止揚――大学卒業は「能力証明」ではなく「社会的選択肢の確保」である
以上の対立は、大学卒業の意味を一つに限定することで生じる。
大学卒業は、純粋な知的能力の証明としては不完全である。学力だけを見るなら、大学名、入学実績、資格、作品、職歴などの方が正確な場合もある。
一方で、卒業資格には、
- 一定期間、課題を継続した履歴
- 組織や制度に適応した履歴
- 大卒限定の職業や試験への参加資格
- 将来の転職や再挑戦における選択肢
- 社会的信用を得るための共通記号
という意味がある。
したがって、大学卒業の本質は「優秀さの証明」というより、
将来の選択肢を狭めないために取得する、汎用的な社会資格
と捉えるべきである。
能力や事業実績によって卒業資格を代替できる者にとって、中退は合理的な選択になり得る。しかし、代替する実績をまだ持たない若者にとっては、卒業資格を捨てることの不利益が大きい。
総括
大学進学を無条件に勧める社会的言説には、教育産業や金融、住宅、雇用を維持するためのプロパガンダという側面がある。また、日本では入学の方が卒業より難しいため、学力の証明だけなら「難関大学中退」でも一定の意味を持つ。
しかし、大学卒業が示すのは学力だけではない。それは、制度への適応、課題の完遂、社会的信用、将来の選択肢を一括して示す記号である。
ゆえに、大学卒業を絶対的な能力証明として神聖視するのは誤りであるが、単なる紙切れとして軽視するのも誤りである。
大学卒業とは、知性の勲章というより、能力をまだ十分に可視化できない若者が取得する「社会的な保険」である。
そして保険と同様、その取得を勧める側には経済的利害がある。それでも、加入しないリスクを負うのは最終的に本人である。この矛盾の中に、現代日本における大学卒業の意義が存在する。


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