――ルイ14世からジョン・ローへ、ブルボン朝財政の弁証法
「ルイ14世の財政支出とジョン・ローの量的緩和が、ブルボン朝の財政を破壊した」という命題は、大筋では妥当である。しかし、ヴェルサイユ宮殿や紙幣発行を単なる浪費・放漫財政として理解するだけでは不十分である。
それらは当初、フランス国家を近代化し、国力を増強するための合理的政策だった。問題は、国家能力の強化に成功しながら、その費用を公平かつ継続的に調達する制度を構築できなかったことにある。
正――財政支出による近代国家の建設
ルイ14世の政策は、封建的に分散していた権力を国王の下へ集中させる壮大な国家建設事業であった。
官僚制――国家を「統治する機械」に変える
地方貴族や身分団体を介して統治していた中世的王国では、国王の命令は全国へ一様には届かなかった。そこでルイ14世は、地方長官や官僚組織を整備し、課税・司法・治安・産業政策を中央政府の管理下に置こうとした。
官僚制は単なる支出ではない。税収を把握し、軍隊を動員し、全国市場を形成するための国家インフラである。コルベールの改革によって、1661年の財政赤字は1666年には一時的に黒字化し、国債利払いも削減されたとされる。つまり、絶対王政は当初、財政規律と国家能力の強化を両立させる可能性を持っていた。(en.wikipedia.org)
常備軍――暴力の独占による国内統一
常備軍の整備は、国外への侵略だけを目的としたものではない。地方貴族が独自の軍事力を持つ封建社会を解体し、国王が暴力を独占するという近代国家成立の条件でもあった。
常備軍によってフランスは、ヨーロッパ最大級の軍事国家となった。軍隊の制服、武器、食糧、道路、要塞に対する需要は、国内産業や物流の発達も促した。
ヴェルサイユ宮殿――浪費であると同時に統治装置
ヴェルサイユ宮殿は、今日的な意味での道路や港湾のような公共事業ではない。しかし、宮殿建設は建築・造園・家具・織物・美術などに巨大な需要を生み、王権の威信を可視化した。
さらに重要なのは、貴族を宮廷生活へ取り込み、地方で独立した政治勢力となることを防いだ点である。ヴェルサイユは宮殿であると同時に、貴族を国王の周囲に拘束する政治的な「集権装置」だった。
したがって、官僚制・常備軍・ヴェルサイユは、すべて国家を強くするための先行投資だったのである。
反――国家能力の強化が財政破壊へ反転する
ところが、国家の支出能力は強化された一方、課税能力は身分制社会に制約されたままだった。
絶対王政は、実は「絶対的」に課税できなかった
フランスでは、貴族と聖職者が広範な免税特権を持っていた。税負担は第三身分、特に農民や庶民へ偏り、間接税の徴収も徴税請負人に依存していた。
つまりルイ14世は、国民を戦争へ動員することはできても、富裕な特権身分から十分に税を徴収することはできなかった。財政を安定させるためには身分制を改革する必要があったが、身分制こそ王政を支える政治的基盤だった。
ここに絶対王政の根本矛盾がある。
王権を強化するには財源が必要である。
しかし、その財源を公平に徴収すれば、王権を支える特権身分を敵に回す。
このため、国家は恒久的な税制改革ではなく、借入れ、官職売買、徴税権の譲渡、通貨改鋳といった臨時的手段に依存した。
決定的だったのはヴェルサイユ以上に戦争である
ヴェルサイユは象徴的には重要だが、財政悪化の最大要因は、断続的に続いた対外戦争だった。
ネーデルラント継承戦争、オランダ戦争、アウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争と、戦争は次第に長期化・大規模化した。研究資料でも、ルイ14世期の支出では非軍事支出より軍事支出が圧倒的に大きく、スペイン継承戦争期に頂点へ達したことが示されている。(fraser.stlouisfed.org)
したがって、
「ヴェルサイユ宮殿の浪費が財政を破綻させた」
という理解は単純すぎる。より正確には、
「軍事・官僚国家を建設したが、その規模に対応する近代的な租税国家と公債制度を構築できなかった」
のである。
ジョン・ロー――財政危機を貨幣で解決する試み
ルイ14世が死去したのは1715年であり、ジョン・ローの本格的な政策は、その後の摂政オルレアン公・ルイ15世初期の1716~1720年に行われた。したがって、両者は同一治世の政策ではなく、
ルイ14世が残した債務を、ジョン・ローが金融的に処理しようとした
という前後関係にある。
当時、ルイ14世が残した国家債務は約30億リーヴルと推計され、歳入だけでは元利払いを処理できない状態にあった。(StudyLight.org)
ローは銀行を設立して紙幣を発行し、ミシシッピ会社などの株式と国家債務を結び付けた。国債保有者に国債を会社株式へ交換させることによって、国家債務を株式資本へ転換しようとしたのである。
これは単純な紙幣増刷ではない。
- 紙幣による流動性供給
- 国債の借換え
- 国債と株式の交換
- 植民地貿易会社の統合
- 徴税制度の再編
を一体化した、壮大な国家財政再建計画だった。
現代の量的緩和に似ているのは、中央銀行に近い銀行が紙幣を供給し、国家債務の負担を金融政策によって軽減しようとした点である。しかし、現代の量的緩和は通常、中央銀行が資産を購入して準備預金を供給する政策であり、ローの制度は紙幣・国債・株式・徴税権を一つの巨大企業へ集中させる仕組みだった。したがって「初期的な量的緩和」と呼ぶことはできても、両者を同一視することはできない。
量的緩和の自己否定――信用創造から信用破壊へ
紙幣発行は当初、成功した。
貨幣不足が緩和され、取引が活発になり、値下がりしていた国債の信用も回復した。ローの構想は、フランスを金銀貨依存から信用貨幣経済へ移行させ、国家債務を経済成長によって吸収しようとする近代的発想だった。
しかし、紙幣供給とミシシッピ会社株の買い支えが過剰になると、株価は植民地事業の実体的収益から乖離した。政府・銀行・会社が一体化していたため、株価を維持するための紙幣発行が、さらに株価を押し上げる循環が生じた。
やがて株主が株式や紙幣を金銀貨へ交換しようとすると、銀行は兌換要求に応じられなくなった。1720年にバブルが崩壊し、紙幣と国家に対する信用も同時に失われた。ロー体制では実際に法定紙幣の膨張的発行が行われ、インフレを予想する動きも広がっていた。(eh.net)
ここにも弁証法的な反転がある。
信用を創造して国家債務を解消しようとした政策が、
紙幣を過剰発行したことで国家信用そのものを破壊した。
もっとも、ローの政策が「債務をまったく減らせず、ただ財政を破壊した」と評価するのも正確ではない。バブル崩壊後の整理過程を含めれば、国家債務の一部は実質的に圧縮された。
真の損失は、フランス社会に紙幣・銀行・株式・国債に対する長期的な不信を残したことである。イギリスがイングランド銀行と議会の管理下で国債市場を発達させたのに対し、フランスでは国家信用が国王個人の裁量から独立しなかった。フランス国王は、債務を返済する制度よりも、必要に応じて債務条件を変更する権力を持っていたため、かえって低利・長期の資金を安定的に調達できなかったのである。(api.pageplace.de)
合――ブルボン朝を破壊したのは「支出」でも「貨幣」でもなく、制度的不均衡である
以上から、主題は次のように止揚できる。
正
官僚制・常備軍・ヴェルサイユへの財政支出は、封建国家を中央集権的な近代国家へ変えるために必要だった。
反
ところが、支出を近代化しても、税制は身分特権に拘束されたままだった。国家は恒常的な税収ではなく、借金と臨時収入によって国家膨張を支えた。
合
ジョン・ローは、この政治的に解決できない租税問題を、貨幣と信用の創造によって解決しようとした。しかし、課税制度と議会的信用制度を改革せずに貨幣だけを増やしたため、金融革新は投機へ転化した。
したがって、ブルボン朝の財政を破壊したものは、単なる公共事業や紙幣増刷ではない。
支出する能力、徴税する能力、借金する能力の三者が、均衡していなかったこと
が本質である。
ルイ14世は「支出する近代国家」を完成させた。しかし「公平に徴税する近代国家」は完成させなかった。ジョン・ローは「信用によって借金する近代国家」を先取りした。しかし、その信用を支える政治制度を作ることができなかった。
その後もブルボン朝は戦争のたびに借入れを重ねた。最終的にルイ16世政府は特権身分への課税改革を実施できず、1789年、課税承認を求めて三部会を招集することになる。ヴェルサイユ宮殿の公式史も、悪化した政治・財政状況が三部会招集を強制したとしている。(Château de …)
ゆえに、フランス革命は財政破綻の結果であると同時に、絶対王政が避け続けた租税制度改革の帰結でもあった。
ブルボン朝は金を使いすぎたから倒れたのではない。
国家を近代化しながら、財政を支える政治制度だけを近代化できなかったために倒れたのである。


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