米独立革命から南北対立へ

歴史

――保護関税と自由貿易をめぐる弁証法

結論

米独立戦争の時点で、北部が保護関税、南部が自由貿易を掲げて直接対立していたわけではない。独立戦争はむしろ、イギリスの重商主義的な貿易統制に対する植民地全体の反発として始まった。

しかし独立後、北部では商工業が、南部では奴隷制プランテーションによる綿花輸出が発達した。その結果、

  • 北部は外国製品から国内産業を守る「保護関税」
  • 南部は綿花を輸出し、安価な工業製品を輸入する「自由貿易」

を求めるようになった。

したがって、関税対立とは単なる政策論争ではない。それは、

一つの国家の内部に、工業化を目指す北部と、奴隷制を基礎とする輸出農業を維持したい南部という、異なる二つの経済体制が形成されたことの表現

であった。


1.前提――独立戦争は自由貿易を求める革命だったのか

イギリスは植民地を本国経済に従属させる重商主義政策を採っていた。

植民地は、

  • 原料をイギリスへ供給する
  • イギリスの工業製品を購入する
  • 貿易をイギリス船や指定港に限定される
  • 独自の課税や通貨政策を制約される

という帝国的分業に組み込まれていた。

七年戦争後、イギリスが印紙法などによって植民地への課税と貿易統制を強化すると、「代表なくして課税なし」という反発が生まれた。したがって独立戦争には、政治的自治だけでなく、イギリスの貿易独占から離脱するという経済的意味もあった。米議会図書館

ただし、ここで植民地側が求めた「自由」とは、現代的な意味で関税を撤廃することではない。

求められたのは、

イギリスが決める貿易から、アメリカ自身が決める貿易への転換

であった。

独立とは無関税化ではなく、関税主権の獲得だったのである。


2.正――北部にとっての保護関税

独立当初の北部も一枚岩ではなかった。ニューイングランドの海運業者や商人には、広い市場との自由な交易を望む者も多かった。

ところが、米英戦争によってイギリス製品の輸入が途絶えると、アメリカ国内で繊維工業などが成長した。戦争が終わり、安価で競争力の強いイギリス製品が再び流入すると、新興工業は存続の危機に直面した。

そこで北部の製造業者は、外国製品に関税を課すことを求めた。

保護関税には、次の論理があった。

  • 幼稚産業を外国企業との競争から守る
  • 国内に工場と雇用をつくる
  • 輸入依存を減らして国家の自立性を高める
  • 関税収入で連邦政府と国内開発を支える
  • 北部の工業製品に国内市場を確保する

北部から見れば、形式的な自由貿易は、すでに工業化したイギリスと、発展途上のアメリカを同じ条件で競争させる制度だった。

つまり保護関税は、

自由競争を制限する政策であると同時に、将来アメリカが自立して競争できる条件をつくる政策

だったのである。


3.反――南部にとっての自由貿易

南部の経済は、綿花・タバコ・米などの商品作物をヨーロッパへ輸出するプランテーションを中心としていた。とりわけ綿花は奴隷労働によって生産され、イギリスの繊維工業へ輸出された。

南部にとって理想的なのは、

  1. 綿花を海外へ高く売る
  2. イギリスなどから安い工業製品を買う
  3. 国際貿易を可能な限り制限しない

という体制だった。

ところが保護関税が導入されると、輸入品の価格が上昇する。南部の消費者や農園経営者は、割高な北部製品を購入させられることになる。

さらに、アメリカがイギリス製品に関税を課せば、イギリスが報復し、南部産綿花の輸出が打撃を受ける可能性もあった。

南部から見ると保護関税とは、

南部が外国へ綿花を売って獲得した富を、関税と商品価格を通じて北部の工業資本へ移転する制度

にほかならなかった。

したがって南部の自由貿易論は、単なる自由主義思想ではない。それは、奴隷制プランテーションという既存の生産体制を守るための経済政策だった。


4.矛盾――どちらの「自由」なのか

北部と南部は、いずれも「自由」を主張した。しかし、その内容は正反対だった。

地域主張した自由必要とした政策
北部外国工業から自立し、国内産業を育てる自由保護関税・連邦政府の産業政策
南部綿花を海外へ売り、安い製品を輸入する自由低関税・自由貿易・州権
国家全体外国への従属を避ける自由国内市場と連邦権力の強化
奴隷強制労働から解放される自由奴隷制の廃止

北部は「国家の経済的自立」を自由と考え、南部は「州や農園主が取引相手を選ぶ自由」を自由と考えた。

だが、南部の自由貿易は奴隷の不自由を前提としていた。世界市場で競争力のある綿花を生産できたのは、奴隷労働によって人件費を強制的に抑えていたからである。

ここに南部自由主義の根本的矛盾があった。

商品と資本の自由を最大化する一方、人間の自由を否定していたのである。


5.1828年関税と無効化危機

南北間の関税対立が頂点に達したのが、1828年の高関税だった。南部では「唾棄すべき関税」と批判され、とりわけサウスカロライナ州が強く反発した。

ジョン・C・カルフーンは、連邦政府が州の利益を不当に侵害した場合、その州は連邦法を無効と宣言できると主張した。これが1832~33年の無効化危機へ発展する。

ここで関税問題は、単なる税率の問題から、

  • 連邦政府と州のどちらが主権を持つのか
  • 全国多数派が特定地域へ負担を強制できるのか
  • 南部は北部主導の連邦にとどまるべきか

という国家体制の問題へ転化した。米国上院史料

後の南北戦争で用いられる「州権」「連邦法の無効」「脱退」という論理は、すでに関税対立のなかで形成されていたのである。


6.合――関税対立は奴隷制対立へ統合された

関税だけを南北戦争の原因とするのは正確ではない。南北戦争の中心的争点は奴隷制、とりわけ奴隷制を西部の新領土へ拡大できるかどうかだった。

しかし、関税と奴隷制は無関係でもない。

両者は同じ経済構造の異なる表現だった。

flowchart TD
    A["独立と関税主権の獲得"] --> B["北部の工業化"]
    A --> C["南部の綿花輸出"]
    B --> D["保護関税・強い連邦"]
    C --> E["自由貿易・州権"]
    D --> F["南北の制度的対立"]
    E --> F
    F --> G["奴隷制の拡大問題と結合"]

北部の工業化は、

  • 自由労働
  • 賃金労働者
  • 国内市場
  • 鉄道や銀行
  • 強い連邦政府

を必要とした。

これに対して南部の綿花経済は、

  • 奴隷労働
  • 土地の継続的拡大
  • 国際市場
  • 低関税
  • 州権と弱い連邦政府

を必要とした。

したがって関税対立と奴隷制対立は、別々の問題ではなく、

工業資本主義と奴隷制プランテーション資本主義のどちらが、アメリカの国家的発展を主導するのか

という一つの矛盾から生まれていた。


7.総括――独立革命が生み出した新たな支配関係

アメリカは独立戦争によって、イギリス重商主義からの自由を獲得した。しかし、独立によって経済的矛盾が消えたわけではない。

むしろ独立によって関税主権が連邦政府へ移ると、今度は、

  • 誰の産業を保護するのか
  • 誰が関税の負担を負うのか
  • 国家の利益を誰が定義するのか

という国内対立が現れた。

弁証法的に整理すれば、次のようになる。

  • ――植民地はイギリスの重商主義から独立し、交易の自由を獲得した
  • ――独立後、北部の保護関税と南部の自由貿易が衝突した
  • ――南北戦争によって奴隷制プランテーション体制が解体され、北部型の工業化・国内市場・強い連邦政府が国家原理となった

南北戦争後のアメリカは自由貿易国家になったのではない。むしろ19世紀後半には、高関税によって国内工業を育成し、世界最大級の工業国へ成長した。

したがって米独立革命から南北戦争までの歴史は、

「帝国からの自由」を獲得したアメリカが、内部に存在する二つの経済体制の矛盾を南北戦争によって決着させ、北部型工業国家として再編されていく過程

と捉えることができる。

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