悪貨は良貨を駆逐する――学歴の「資格化」と浪人文化の衰退

処世術

近年、浪人生は減少し、「受験勉強に意味はない」「大学名よりも、大学を卒業したという事実が重要だ」という考え方が広がっている。その背景には、学校歴、すなわち大学の偏差値やブランドが強い実利をもつのは主として新卒採用の入口に限られる一方、「大卒」という資格は、その後も生涯にわたって職業選択の範囲を左右するという現実がある。

しかも、大学名にこだわらなければ、とりわけ文系において大卒資格を取得すること自体は、かつてほど困難ではない。こうした事実が社会に広く知られた結果、人々は「一年浪人して上位大学を目指す」ことよりも、「入れる大学へ現役で進学し、早く大卒資格を得る」ことを合理的に選ぶようになったのではないか。

この現象は、いわば「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則の学歴版として捉えることができる。

正――学校歴は能力と努力を示す信用証券である

本来、学校歴には二つの意味がある。

第一は、一定の学力を獲得したことの証明である。難関大学への入学には、知識だけでなく、長期間にわたって努力を継続する力、誘惑を制御する力、目標から逆算して行動する力が必要になる。

第二は、採用時における情報の非対称性を縮小する機能である。企業は、短時間の面接だけで応募者の能力や勤勉性を完全には判断できない。そこで学校歴を、本人の潜在能力や努力履歴を推測するための「代理指標」として利用する。

この意味で、学校歴は単なる肩書ではない。それは、成人以前の時間をどのように過ごしたかを社会に伝える、一種の信用証券である。

浪人にも一定の合理性があった。大学名によって新卒時の就職先、人的ネットワーク、周囲から期待される役割が変わるのであれば、一年を投じて学校歴を改善することは、長い職業人生に対する先行投資となるからである。

反――実社会では「大学名」より「大卒資格」が長く効く

しかし、学校歴の効力は生涯にわたって一定ではない。

大学名が最も強く作用するのは、本人に職歴も実績もない新卒採用の段階である。就職後は、学校歴よりも勤務先、職務経験、資格、営業成績、専門性、人間関係、さらには資産形成の成否などが評価を左右するようになる。

これに対して、「大卒か否か」という区分は、その後も比較的長く残る。企業の応募要件、国家資格の受験資格、昇進・給与制度、転職市場などでは、大学名よりも「大卒以上」という形式的要件が用いられることが多い。

ここに学校歴をめぐる非対称性が生じる。

  • 上位大学に進学するための追加的負担は大きい
  • その大学名による利益は、新卒時に集中しやすい
  • 大卒資格そのものは、その後も長期間にわたって効力をもつ
  • 大学を選ばなければ、大卒資格の取得は比較的容易である

この構造を理解すれば、浪人して上位大学を目指すよりも、現役で入れる大学に進み、資格、就職活動、インターン、投資、起業などに時間を使う方が合理的だという判断が生まれる。

「受験勉強無意味論」は、単なる反知性主義ではない。学校歴から得られる限界利益と、それを得るための時間・費用を比較した結果でもある。

学歴版「悪貨は良貨を駆逐する」

ここでいう「良貨」とは、厳しい選抜と十分な教育を経て取得された、能力の裏付けをもつ学位である。

これに対する「悪貨」とは、教育内容や学力保証が乏しいにもかかわらず、制度上は同じ「大卒」として扱われる学位である。

もちろん、大学や卒業生を一律に「悪貨」と呼ぶべきではない。問題は個人の優劣ではなく、異質な教育成果が同じ資格名で流通する制度にある。

企業の募集要項では、難関大学卒も、選抜性の低い大学卒も、形式上はともに「大卒以上」の条件を満たす。ところが、前者が学位を得るために支払った努力や機会費用は、後者より大きい場合がある。

それでも制度上の効力が大きく変わらないのであれば、人々は高い費用を払って「良貨」を得るより、低い費用で同じ額面の「大卒資格」を得ようとする。結果として、浪人して上位大学を目指す需要が減少し、容易に取得できる大卒資格が増加する。

さらに大卒者が増えると、かつて高卒者が担っていた職務まで大卒要件が課されるようになる。これは学歴の価値が高まったのではなく、学歴が事実上の入場券へ変質したことを意味する。

こうして、次の循環が生まれる。

大学進学率の上昇
→ 大卒資格の希少性低下
→ 企業による大卒要件の一般化
→ 高卒者の選択肢縮小
→ 教育内容にかかわらず大学へ進学
→ 大卒資格のさらなる希薄化

この意味で、質の高い学歴が直接駆逐されるというよりも、容易に取得できる「大卒という額面」が普及することで、学位全体の情報価値が薄められていくのである。

止揚――学歴は「資格」と「学校歴」に分裂する

もっとも、「悪貨が良貨を駆逐する」という比喩だけでは、現在の学歴社会を十分には説明できない。

学歴は、完全に均質な通貨ではないからである。難関大学の学校歴は、新卒採用、専門職、官僚、大企業、研究職など、特定の市場では依然として高い価値をもつ。大学名を問わない職場では同じ大卒として扱われても、選抜性の高い領域では大学間の差異が再び表面化する。

したがって、学歴は次の二つへ分裂したと考えるべきである。

学歴の機能主な効力
大卒資格応募資格、昇進要件、資格試験など、生涯にわたる最低条件
学校歴新卒採用、人的ネットワーク、社会的信用など、初期条件の格差

現役で入りやすい大学へ進学することは、「大卒資格」を安価かつ早期に取得する戦略である。一方、浪人して難関大学を目指すことは、新卒時の選択肢や人的環境という「学校歴」を買う戦略である。

どちらが合理的かは、本人が目指す進路によって異なる。

大学名による選抜が強い職業を目指すなら、浪人にも投資価値がある。しかし、資格、技術、実務経験、家業、起業などによって評価される道を進むなら、大学名の改善に一年を費やす利益は小さくなり得る。

したがって、止揚されるべき結論は「受験勉強は無意味」でも「難関大学に行けば安泰」でもない。

大卒資格は職業社会への入場券であり、学校歴は出発地点を有利にする信用である。しかし、出発地点の差は、その後の実績によって拡大も縮小もする。

結論

浪人生の減少と「受験勉強無意味論」の広がりは、若者が努力しなくなったからだけではない。大卒資格の長期的効力と、学校歴の効力が新卒時に偏っていることを、人々が理解した結果でもある。

大学名にこだわらなければ大卒資格を比較的容易に取得できる社会では、上位大学を目指す追加的努力の費用対効果は相対的に低下する。この点では、確かに「悪貨は良貨を駆逐する」という構造が存在する。

しかし、真に駆逐されつつあるのは難関大学の価値ではない。駆逐されているのは、「学歴とは能力の証明である」という単純な信頼である。

大卒者が増えるほど、企業は大学名だけでなく、資格、経験、作品、実績、対人能力など、別の選抜指標を求めるようになる。学歴の大衆化は学歴社会を終わらせるのではなく、むしろ学歴を「最低資格」と「序列情報」に分裂させる。

ゆえに、学歴版グレシャムの法則の帰結は、学歴の消滅ではない。

誰もが大卒資格を持つ社会では、大卒であることの価値は低下し、どの大学で何をなし、その後に何を積み上げたかという差異が、かえって重要になるのである。

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