供給が減り、貨幣が増えてもインフレにならないことはあるか

金融

――ワイマール・ドイツから考える貨幣・需要・供給の弁証法

結論

財・サービスの供給が減り、マネーサプライが増えても、インフレにならない事例は存在する。

ただし、それは主に次のような局面である。

  • 増えた貨幣が消費や投資に使われず、預金・準備預金として滞留する
  • 信用不安によって貨幣の流通速度が急低下する
  • 供給が減っても、それ以上に総需要が減少する
  • 国内供給の減少を輸入や在庫の取り崩しで補える
  • 価格統制によって、インフレが表面化していない

したがって、正確な命題は次のようになる。

財・サービスの供給が減り、マネーサプライが増えれば、必ずインフレになるわけではない。

インフレが本格化するのは、供給能力に対して、実際に支出される名目需要が過大になったときである。

もっとも、政府が新たな貨幣を家計の所得補償として直接投入し、しかも供給減少が長期化する場合には、インフレを回避するのは難しい。

1923年のドイツは、まさにこの条件が極端な形で重なった事例だった。


【正】供給減少と貨幣増加はインフレを生む

貨幣数量説の基本式は、次のように表される。

MV=PY

それぞれの記号は、次の意味を持つ。

  • M:マネーサプライ
  • V:貨幣の流通速度
  • P:物価水準
  • Y:実質的な財・サービスの供給量

貨幣の流通速度Vが一定だと仮定すれば、マネーサプライMが増加し、供給量Yが減少した場合、物価Pは上昇せざるを得ない。

例えば、次のような状態を考えてみよう。

  • マネーサプライが100から120へ増える
  • 実質供給量が100から80へ減る
  • 貨幣の流通速度は変わらない

この場合、物価水準は単純計算で次のようになる。

120÷80=1.5

したがって、物価水準は50%上昇する。


ルール占領後のドイツ

1923年1月、フランスとベルギーは、賠償問題を背景として、ドイツの工業中心地であるルール地方を占領した。

ドイツ政府は占領に対して「受動的抵抗」を呼びかけ、労働者は石炭や鉄鋼の生産・輸送を停止した。

一方、政府はストライキ中の労働者や企業に対して所得補償を行い、その財源を通貨発行に依存した。

その結果、次のような循環が生じた。

  • ストライキによって石炭・鉄鋼などの供給が減少する
  • 給与補償によって家計の名目所得は維持される
  • 財政赤字を埋めるために貨幣が発行される
  • マルクへの信認が崩れ、受け取った貨幣が直ちに使われる
  • マルク安によって輸入物価も上昇する

ドイツのインフレはルール占領以前から進行していた。

戦時債務、財政赤字、賠償問題、マルク安など、複数の問題がすでに存在していたからである。

したがって、ルール占領がハイパーインフレの唯一の原因だったわけではない。

しかし、ルール占領と受動的抵抗に対する財政支援が、インフレを1923年の破局的な段階へ移行させる決定的な加速要因になったことは確かである。

参考:ドイツ連邦銀行「From the Reichsbank to the Bundesbank」

この局面では、マネーサプライが増えただけではない。

マルクを保有すること自体が危険になったため、人々は受け取った貨幣を直ちに商品や外貨へ交換するようになった。

その結果、貨幣の流通速度も上昇した。

マネーサプライ増加+流通速度上昇+供給減少
=物価の爆発的上昇

ワイマール・ドイツのハイパーインフレは、単なる「通貨発行のしすぎ」ではない。

供給崩壊、財政赤字、通貨増発、為替下落、輸入物価上昇、信用崩壊が相互に強化し合った複合現象だったのである。


【反】貨幣は存在するだけでは物価を上げない

しかし、マネーサプライが増えれば、必ず物価が上昇するとは限らない。

貨幣数量式には、マネーサプライだけでなく、貨幣の流通速度Vが含まれているからである。

増えた貨幣が使われず、現金や預金として保有されれば、名目需要は増えない。

物価上昇率は、近似的に次のように表せる。

インフレ率
=マネー増加率+流通速度上昇率-実質供給成長率

例えば、次のような状態を考えてみよう。

  • マネーサプライ:10%増加
  • 実質供給:2%減少
  • 貨幣の流通速度:13%低下

この場合は、次のようになる。

10%-13%-(-2%)=-1%

供給が2%減少し、マネーサプライが10%増加しているにもかかわらず、物価は約1%下落する。

つまり、マネーサプライの増加による物価上昇圧力より、貨幣流通速度の低下による需要減少圧力の方が大きければ、インフレは起こらないのである。


なぜ貨幣の流通速度は低下するのか

不況や金融危機が起きると、家計や企業は将来に不安を感じる。

その結果、次のような行動が増加する。

  • 家計が消費を控え、現金・預金を積み上げる
  • 企業が設備投資を延期する
  • 家計や企業が借金返済を優先する
  • 銀行が貸出を抑制する
  • 金融機関が中央銀行から供給された資金を準備預金として保有する

この状態では、経済全体に存在する貨幣の量が増えても、それが財・サービスの購入には向かわない。

貨幣が銀行口座に存在することと、その貨幣が商品市場で実際に使われることは同じではない。


事例1――2008年の世界金融危機

リーマン・ショック後、米連邦準備制度理事会(FRB)は金融機関に大量の資金を供給した。

マネタリーベースは急増した一方、生産と雇用は減少し、インフレ率はむしろ急低下した。

その理由は、増加した資金の大部分が、銀行の超過準備として中央銀行に滞留したからである。

その流れは、次のように表せる。

マネタリーベース増加

銀行の準備預金増加

貸出・消費は同じ割合では増加しない

FRB自身も、銀行準備は大幅に増えたものの、その多くが使用されず、M1やM2など広義の通貨の伸びはマネタリーベースほど大きくなかったと説明している。

参考:FRB「The Crisis and the Policy Response」

ここでは、「中央銀行貨幣の増加」と「民間部門で実際に使われるマネーサプライの増加」を区別しなければならない。

中央銀行が大量の資金を供給しても、銀行が貸し出さず、家計や企業も借りなければ、商品市場に向かう購買力は十分に増えない。

したがって、これは厳密には完全な反例というより、次の命題を示す事例である。

貨幣の増加が名目需要に転化しなければ、供給減少と同時に起きてもインフレを生まない。


事例2――日本の量的緩和と流動性の罠

2000年代以降の日本でも、日本銀行は多額の資金を金融システムに供給した。

しかし、長期間にわたって物価上昇率は低く、デフレから容易に脱却できなかった。

背景には、次のような要因があった。

  • 将来所得に対する不安
  • 企業による債務返済の優先
  • 設備投資需要の低迷
  • 銀行の慎重な貸出姿勢
  • 人口減少と高齢化
  • デフレ予想
  • 低い資金需要

日本銀行が供給した中央銀行貨幣は増加したが、それに比例して銀行貸出、広義マネー、消費、設備投資が増えたわけではない。

これは「流動性の罠」と呼ばれる現象である。

金利が極めて低い状態では、貨幣と短期国債の違いが小さくなる。

そのため、中央銀行が国債を購入して貨幣を供給しても、人々は増えた貨幣をそのまま保有する。

日本銀行も、流動性の罠においては、マネタリーベースを増やすだけでは経済や物価に与える効果が小さいと説明している。

参考:日本銀行「Japan’s Liquidity Trap and Monetary Policy」

また、日本ではマネタリーベースに比べてマネーサプライの伸びが小さく、貨幣乗数が大きく低下した。

参考:日本銀行金融研究所「Japan’s Deflation, Problems in the Financial System, and Monetary Policy」

その流れは、次のように表せる。

貨幣供給の増加

現金・預金としての保有増加

貨幣の流通速度低下

低インフレ・デフレの継続


事例3――コロナ危機の初期

2020年のコロナ危機初期には、各国で生産やサービス供給が急減する一方、中央銀行の資金供給と政府の所得補償によってマネーが増加した。

それにもかかわらず、危機の初期には全面的なインフレは発生せず、一部の物価はむしろ下落した。

その理由は、供給だけでなく需要も大きく減少したからである。

  • 外出制限によって消費機会そのものが失われた
  • 家計が給付金を貯蓄した
  • 失業不安から予備的貯蓄が増えた
  • 企業が設備投資を延期した
  • 原油需要が急減した
  • 外食・旅行・娯楽などの需要が消滅した

例えば、飲食店が休業すれば、外食サービスの供給は減少する。

しかし、消費者も感染を恐れて外食を避ければ、需要はそれ以上に減少する。この場合、供給が減っていても価格は上昇しない。

ところが、経済再開後には状況が反転した。

家計が蓄積していた預金を使い始め、政府の財政支援によって需要が急回復する一方、物流の混乱や半導体不足などの供給制約は残った。

その結果、遅れて強いインフレが発生した。

コロナ危機は、次の事実を示している。

供給減少とマネー増加が同時に起きても、貨幣が貯蓄されている間はインフレにならない。
しかし、その貨幣が支出に転じれば、遅れてインフレが表面化する。


「インフレしない事例」の五つの類型

1.流動性の罠

増えた貨幣が現金や預金として滞留するため、消費や投資が十分に増えない。

この状態は、家計や企業の慎重姿勢が続く限り、比較的長期化する可能性がある。

2.金融危機

銀行貸出と信用創造が収縮するため、中央銀行が資金を供給しても、民間経済で使われる購買力が十分に増えない。

3.総需要の急減

供給が減っても、それ以上に消費や設備投資が減少すれば、物価は上昇しない。

4.輸入・在庫による補完

国内生産が減少しても、輸入の増加や在庫の取り崩しによって市場への供給量を維持できれば、物価上昇を抑えられる。

ただし、この方法は外貨や在庫が続く間しか利用できない。

5.価格統制・配給

政府が公定価格や配給制度を導入すれば、表面的な物価上昇を抑えることができる。

ただし、価格統制によってインフレ圧力そのものが消えるわけではない。

価格を上げられない代わりに、次のような現象が発生する。

  • 品不足
  • 行列
  • 配給
  • 闇市場
  • 品質低下
  • 抱き合わせ販売

これは、価格として表面化していない「抑圧されたインフレ」である。


【合】問題は貨幣量ではなく、供給に向かう実効需要である

「供給減少」と「マネーサプライ増加」という二つの変化だけでは、物価の方向は確定しない。

決定的なのは、増加した貨幣が実際に支出されるかどうかである。

物価が決まるまでの過程は、次のように整理できる。

増えた貨幣が消費・投資に使われる場合

供給減少+貨幣増加

名目需要が供給能力を超える

インフレ

増えた貨幣が預金・準備預金として滞留する場合

供給減少+貨幣増加

貨幣の流通速度が低下する

低インフレまたはデフレもあり得る

ここから、貨幣について次の三段階を区別する必要がある。

1.貨幣の存在

銀行口座や準備預金に貨幣が記録されている状態である。

2.貨幣の支出

家計や企業が、その貨幣を財・サービスの購入に使う状態である。

3.供給能力との衝突

実際に支出される名目需要が、供給可能な財・サービスの量を超える状態である。

本格的なインフレが発生するのは、第三段階に至ったときである。


ワイマール・ドイツとの決定的な違い

リーマン・ショック後の米国や量的緩和下の日本では、中央銀行が主として金融機関に資金を供給した。

その資金の相当部分は、準備預金や企業・家計の預金として金融システム内に滞留した。

これに対して、ルール占領後のドイツ政府は、生産を停止した労働者の生活を支えるために貨幣を発行した。

つまり、次のような構造だった。

  • 生産物は減少する
  • 家計の購買力は維持される
  • 補償された貨幣は生活必需品の購入に使われる
  • マルク下落を恐れて、受け取った貨幣が直ちに支出される

供給減少+所得補償+通貨不信

この三つが同時に発生したのである。

金融危機後の量的緩和では「使われずに滞留する貨幣」が増えた。

これに対して、ワイマール・ドイツでは「直ちに使われる貨幣」が増えた。

ここに決定的な違いがある。


最終的な止揚

財・サービスの供給が減り、マネーサプライが増えても、インフレにならない事例は存在する。

それは、貨幣増加の効果が次の要因によって相殺されている場合である。

  • 貨幣流通速度の低下
  • 貨幣保有需要の増加
  • 金融機関の信用収縮
  • 消費・設備投資の減少
  • 輸入や在庫による供給補完
  • 価格統制による物価上昇の抑制

したがって、弁証法的な結論は次のようになる。

貨幣は、それ自体ではインフレではない。
貨幣が実際に支出され、有限な供給と衝突したとき、初めてインフレになる。

ただし、ワイマール・ドイツのように、政府が生産を止めた人々の所得を貨幣発行で補償し、しかも通貨への信用まで失われると、貨幣は滞留しない。

人々は受け取った貨幣を直ちに商品や外貨へ交換するため、貨幣の流通速度まで上昇する。

マネーサプライ増加+流通速度上昇+供給減少
=爆発的なインフレ

この場合、インフレは単なる物価上昇にとどまらない。

自国通貨を保有しようとする者がいなくなることで、通貨制度そのものの自己崩壊へと発展する。

要するに、供給減少とマネーサプライ増加は、インフレの絶対的な十分条件ではない。

しかし、増加した貨幣が実効需要となり、さらに自国通貨から商品・外貨への逃避が始まれば、それは極めて強力なインフレ条件となるのである。

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