ドル覇権の揺らぎと金回帰 ― 制裁リスクかインフレ懸念か

中央銀行の外貨準備構成を見ると、近年ドルの比率が緩やかに低下し、金の保有が増えています。通俗的な説明は、ロシアのウクライナ侵攻後に米欧が露中央銀行の資産を凍結し、SWIFTから主要銀行を切り離したことにより「ドル資産は地政学的リスクを伴う」と各国が悟ったためだとするものです。西側の制裁によりロシアは3200億ドル相当の外貨資産を失い、SWIFTから遮断されるという事態は各国に「ドル建て資産は地政学的な武器になり得る」と強烈に印象付けました。制裁への警戒はイランに対する「最大限の圧力」キャンペーンやGazprombankへの拡大などでも強化され、BRICS諸国を中心に代替決済網や自国通貨建て貿易への取り組みが進んでいます。この視点では、金は利息を生まない代わりに発行体の信用リスクや凍結リスクがなく、自国に保管すれば他国の法域に左右されないため、制裁リスクを回避する「避難港」と見なされるのです。2022年以降の金価格上昇と中央銀行の金購入増加は、こうした地政学的緊張の高まりと連動しています。

他方、金購入の背景を単純に「脱ドル化」と結びつけるのは早計だとする反論も根強いです。世界の外貨準備に占める金の割合は市場価格ベースでも15%程度で、2000年代初頭と大差なく、金の保有増加の大半は中国・ロシア・トルコ・インドなど少数国によるものです。多くの国はドルを主要準備通貨として維持しており、金購入は「ドルからの決別」ではなく伝統的なポートフォリオ多様化に過ぎないという見方です。欧州中央銀行が2024年に実施した調査でも、中央銀行が金を保有する主目的は長期的な価値保全やインフレ・危機時のヘッジ(82〜78%)であり、ドルエクスポージャー削減を挙げたのは32%に留まりました。金には利息が付かないため保有コストも大きく、保管や輸送のコストも高い。国際金融システムで即時決済可能な流動性や担保力では米国債が依然優位であり、ドル建て資産の役割を完全に置き換えることは難しいと指摘されます。

さらに、インフレと実質金利の動向を重視する見方もあります。2008年以降の大規模金融緩和で各国通貨が膨張し、インフレ懸念が高まる中、米国債の名目利回りからインフレ率を差し引いた実質金利はマイナス圏に落ち込むことがありました。金は利息を生まないため、機会費用は実質金利に等しいと言われ、実質金利が低いほど魅力が増します。研究では「米国債の実質利回りがマイナスになると、金は相対的に魅力的になり、中央銀行の金保有を促す」ことが示され、2008年〜2022年までは金価格が実質金利と逆相関を示す「インフレヘッジ」として機能していたことが確認されています。また、金は危機時に株価と低い相関を持ち、価値保存手段として機能するとの研究結果もあり、経済不安が高まる局面で金需要が増える要因となっています。

以上を踏まえて統合的に考えると、中央銀行の金買い増しとドル離れは単一の理由に帰するものではなく、多様な要因が重層的に作用しています。ロシアへの制裁やSWIFT排除がドル資産の地政学的リスクを顕在化させたことは確かであり、特に米国と政治的に距離を置く国々が金の比率を高めています。しかし、世界全体ではドルは依然として主要な準備資産であり、金のシェア上昇は多様化やインフレヘッジといった伝統的な運用目的による部分が大きく、金購入の多くは少数国に集中しています。そして、急速な貨幣供給増とインフレによる実質金利低下が進めば米国債の魅力が相対的に低下し、金が選好される場面も増えるでしょう。今後も地政学的緊張、世界的インフレと通貨の希薄化、金融制裁の利用、各国の通貨戦略といった複合的な要因が絡み合い、ドル中心からより多極的な準備資産構成へと緩やかに変化していくと考えられます。

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